【前編】「1年で結果を出せなかったらあきらめようと思ってた」流しのマンガ描き・さいきまこさんが語る「私の綱渡りまんが道」

生活保護をテーマにした前著『陽のあたる家』。そして子どもの貧困をテーマにした最新作『神様の背中』
それらの著者である「流しのマンガ描き」さいきまこさん。
主に女性誌をフィールドにマンガを発表し続けていた彼女が、どういったきっかけで(どちらかといえば)社会的に「日陰」のテーマの作品を描くに至ったのでしょうか?

今回はそんなさいきさんにロングインタビューをお願いしました!

その前半です。シングルマザーとして、そしてフリーランスとして、現在の家族制度と雇用システムの壁にぶつかったひとりの女性が、マンガ描きとして覚醒するまでをお送りします。

【後編】「この声は絶対、拾わなければ」流しのマンガ描き・さいきまこさんが語る「私の綱渡りまんが道」

2015.07.25

「マンガ家」とはなにか?

── 最初の質問なんですが「あなたは何者ですか?」といつもお伺いしているんです。いかがでしょうか?
さいき:うーん、何者なんでしょうね? 少なくとも「マンガ家」ではないな、と自分では思っています。「マンガ描き」か、Twitter上では「流しのマンガ描き」と名乗っていますが。「マンガ家」は不本意ながら便宜上名乗ることはあるのですけれど、やっぱり1冊・2冊の著書しかないのでは作家の類は名乗れないと思っているんです。
── そう考えるきっかけはあったんですか?
さいき:フリーの編集者をしていた時に、小説家の奥泉光さんと仕事でお会いする機会があったんです。芥川賞を受賞される少し前、確か3冊目の著書が出るというタイミングだったと思うんですけれど。その時奥泉さんが「やっぱり作家・小説家と名乗れるのは本を3冊出してからですよね」とおっしゃって、当時も今も、私は全く同感でした。著書をある程度出していることが作家の要件だなと。
── それ一本で「食える・食えない」は重要ですか?
さいき:マンガの収入だけで食えているのがプロ、とすると実際ほんの一握りになってしまいますよね。今は別の仕事を持ちながら描いているなんて普通ですから。描ける媒体自体どんどん減っていますし。だから私の場合でいえば「マンガを描きながら生活をしている人」というのが一番実態に近いですね。

就職→挫折→転職→結婚→退職

── 子供時代からマンガ家になりたかったのですか?
さいき:マンガはもちろん好きで、特に集英社の『りぼん』で描いていらした一条ゆかり先生とかおおやちき先生が大好きな子どもでした。小学生の時に自分でも描いてみたことはあるけど、お話を最後まで完結させられなくて。絵もひどいものだったし、プロを目指そうとは全く考えなかったです。中学生までは音楽をやりたかったんですよ。クラシックのピアノですね。
── それが何故美術の方にいったんですか?
さいき:私が中学二年生の時に、五歳上の姉が東京芸大の音楽学部に進学したんです。そうしたら、その姉が「音楽は食えないからあんたは来るな」と私のみならず親にも言いまして。それで反対されて音楽は諦めたんですけれど、やっぱり普通の勉強はしたくなくて。それで憧れていた芸大の美術学部を受験して落ち、武蔵野美術大学に行きました。
── 専攻はなんですか?
さいき:グラフィックデザインです。当時流行り始めていた広告デザインに惹かれていたのと、美大で「食えそう」なのはそれしかないという、けっこう消極的な理由で選びました。ここでも「食える」は重要でしたね。私にしろ姉にしろ、女性も手に職をつけて一生働くもの、と思っていたんです。これは親の教育ですね。母親も高校教師として働いていましたし。
── 卒業後、デザイン事務所に就職されます。
さいき:でも結局、グラフィックデザイナーは3年やってやめました。どうあがいても才能がないのはわかっていたんです。そもそも目指した動機が不純なわけですし。自分のようなそれほどデザインが好きでやっているわけじゃない人間は、本当に好きでやっている人間にはかなわないなと。
── それで転職された?
さいき:畑違いの編集職で出版社に就職しました。当時バブルだったので、そういう形の転職も可能だったのだと思います。ただそこは今でいうブラック企業で。最初試用期間三ヶ月ということだったんですけれど、三ヶ月過ぎても正規雇用に切り替えてくれなくて、半年すぎたあたりでたまりかねて会社に訴えたら「ああ! 忘れてた!」といわれたり。週休1日で毎日12時間以上働いて、日曜日は死んだように眠りこけ、でも月曜日は1分でも遅刻したら罰金5000円。給料は十数万円で、残業代は一切つかない。あと、バブルだったので、大手企業が雑誌に莫大な広告料を払って「タイアップ広告」を出していたんです。一見記事に見えるけれど、実は金で買ったヨイショ記事という広告。そういったものを扱っていると、そんなにまでして商品を売る必要があるのかと、嫌でしょうがなかったですね。
── 出版社はいつまで勤めていたのですか?
さいき:結局3年勤めて、結婚を機に退職することになりました。私は辞めたくなかったんです。もっと条件のいい出版社への転職も決まっていましたし。だけど、配偶者から圧力をかけられて、辞めざるをえなかった。今でも痛恨の思いです。辞めたあとも、フリーで仕事は無理矢理続けました。バブル期に雑誌の仕事をしたことで、非常によかったことが一つだけあります。広告料がたくさん入るおかげで、記事にけっこう制作費をかけることができたんです。それで、実力あるノンフィクションライターの方に仕事を依頼して、取材から執筆までの過程を見ることができた。その経験が今、取材が必要なマンガを描く上で役に立っていると思います。

均等法前夜の女性の就活

さいき:就職した当時、私が本当に「世間知らずだったな」と思うのは、進路を決めた高校二年、1977年の時点で「四年制大学卒の女性」の求人って、ろくになかったんです。
──そうなんですか?
さいき:だからその時代で女性の一番の勝ち組は、御三家といわれる有名女子短大を出て大手企業に一般職で入り、3年以内に社内で相手を見つけて結婚することだといわれていました。私はそんなことは全然知らずに四年制に行き、就活のとき初めて壁に気づいたわけですが。高校在学の時点で勝ち組の道を選ぶ同級生は少なからずいました。成績のいい同級生が「早稲田に推薦出来るけど、どう?」と教師に聞かれ、でも彼女は「女子が四年制出てどうするんですか」といって御三家のひとつの短大に行きました。
── すごくもったいない……
さいき:もちろん四年制を出て一般職ではなく就職した人もいます。後述する、司法試験を受けて弁護士になった友人もいるし、40代で大手企業系列の派遣会社の役員になった同級生もいて。そういえば今から7~8年前に、役員の彼女のところへ取材にいったんですね。それで「おたくに登録している派遣社員についてどう思う?」と質問したら「派遣になるようなキャリア形成しか出来なかったのは自己責任でしょ」と言い放った、なんてこともありましたね。
── テンプレですねー。
さいき:同級生といってもいろいろいますね。公立の高校だったので、四年制に行く人、短大や専門学校を選ぶ人、家の事情で就職する人もいました。そんな中、両親が私と姉の四年制進学に積極的だったのは、経済的な要因はもちろんありますけれど「教職をとって母親のように教師になればいい」と考えていたからのようです。でも私は教師になりたいとは思わず、教職はとったけれど企業への就職を希望しました。だけど「男女雇用機会均等法」の前でしたから、求人の段階で「男性のみ」というのがいっぱいあって。ダメもとで電話して「女性なんですけれど面接してもらえないでしょうか?」と聞いて「ダメです!」とはっきりいわれたりしました。

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マンガ画像は新作『神様の背中』より

「1年間で結果を出せなかったらあきらめようと思ってた」

── どういう経緯でプロとしてマンガを描こうと思ったんですか?
さいき:配偶者は出版関係のフリーランサーだったんですけど、収入が不安定で。子どもが生まれたころは特に低収入で、私は不安で仕方がなかったんです。私自身も煮詰まっていて、「どうにかして外に出ないと死ぬ」という風になっていまして。生活費もきちんと稼がなきゃいけないし、まずは出版社でアルバイトとして働き始めました。
── やっぱり何か作りたいと思っていたんですか?
さいき:そうですね。「編集する」より「編集されたい」、自分ひとりの力で出来ることを確かめてみたい、という気持ちはありました。数年後に育児エッセイが流行り始め、それならネタはあるし書けるなと思い、アルバイトの傍ら、ツテを頼って出版社に持ち込んだのが35歳のときです。
── 最初は文章だったんですね。
さいき:はい。そうしたら見てくれた編集者から「活字だけのものは、読者は読みませんよ」ときっぱりいわれたんです。ただ、文章に添えたマンガ調のイラストは面白いといってくれて「だったらこれを膨らませる方向でどうでしょう?」と提案して。それで話が決まり、今は廃刊した育児雑誌に8コマくらいのマンガとイラスト+エッセイという形で1年半ほど連載しました。
── 結構長く続きましたね。
さいき:単行本にはならなかったですけれど。そのあと、ルポマンガをやってみないかといわれ、こちらは見開き2ページのマンガを1年くらい連載しました。こちらも単行本にはならかなったですけれど。
── それは残念でしたね。
さいき:ただ、これらを経験したことで「マンガを描く」ということについて、自分の中で敷居が下がりましたね。これまで自分がプロとしてマンガを描くことが出来るなんて、考えてもみなかったので。その頃は出版社のアルバイトもお払い箱になっていて、次に見つけた編集の仕事も1年の期限付き契約社員だしで、さすがにこれはまずいな思いまして。40歳を過ぎたらフリーの仕事はお呼びがかからなくなっていくだろう、どうしよう、と。でも四コママンガが描けるようになっていたので「もしかしたら、これを仕事に出来るかもしれない」と思って、描いて投稿したんです。
── どこに投稿されたんですか?
さいき:集英社の『YOU』です。マンガ家ってだいたいみんな自分の好きな雑誌や自分の好きな作家がいるところに投稿するんですよ。私は『りぼん』派だったので、正直集英社しか考えなかったです。それで投稿したら、最終選考に残った。37歳だったかな。
── おお、すばらしい!
さいき:一番不安だったのが「この歳でデビューさせてもらえるのか?」という点だったんですが、最終選考に残ったことで「この歳でも何とかなりそうだな」と思いまして。次からは普通にコマを割ったストーリー漫画を結局3作投稿して38歳のときにデビューが決まりました。
── どんな作品だったのですか?
さいき:1作目は、その数年前まで『炎の蜃気楼(ミラージュ)』のような転生モノが流行っていたので、母親や周囲を冷静に見ている転生者の赤ん坊を主人公にしたマンガ。転生モノに夢中になっていた世代がちょうど育児をしている頃だろうな、と思って。2作目はけっこうヘビーな内容で、自分が透明なカプセルに包まれている女の子が主人公なんですけど、その子は母親から虐待されているんですね。そんな彼女がカプセルを破るまでのお話。3作目でデビューにつながった作品は、17歳差の妹が産まれた大学1年生の女の子が主人公。妹を出産するのと引きかえにお母さんが亡くなってしまい、主人公は妹に対して鬱屈がありつつ世話をするうちに「命ってなに?生まれるってなに?」と思い始める……というお話でした。
── 投稿を初めてからデビューまでわずか1年ですよね。
さいき:1年で結果を出せなかったらあきらめようと思っていました。途中で完全に無職状態になっていましたし、1年やって無理だったらあきらめようと。

「ため」があったから乗り切れた

── デビュー出来て、それで食べられるようになったのですか?
さいき:それは全然です。私も含む売れていない人の描き方って、注文があって描くわけじゃないんです。先にネーム(※完成原稿前に描く下書きのようなもの)を担当編集者に「どうですか?」と見せます。それで「まぁ、いいんじゃないですか」といわれたら、ちゃんとした原稿にするんです。そうして完成原稿を渡すんですけれど、すぐに掲載されるわけじゃないんですよね。「掲載出来る順番が来たら連絡するから」といわれて、半年くらい待ってから「会議通りました」といわれ、さらにそこから2ヶ月後にやっと載るんです。
── 『YOU』へ掲載されるのに、そんなに時間がかかるんですね!
さいき:さらに『YOU』は『YOU』でも本誌には載らないんですね。本誌に載るのは人気作家だけ。当時『別冊YOU』というのが出ていて、新人はこの読み切り枠を争うんです。こちらは季刊だから年四冊しか出ない。それすら数年前に廃刊になっちゃって、ちなみに今『YOU』本誌も隔週刊だったのが月刊になっています。結局年間1本か2本描かせてもらえるかどうか、といった状況だったので、生活するのはとてもじゃないけど無理です。
── さらにこのタイミングで離婚された。
さいき:はい、デビューから半年後くらいかな。子どもは私が引き取って。当時の担当編集者に「離婚しちゃいました」っていったら、第一声が「えー! じゃあマンガなんか描いている場合じゃないじゃないですか」って(笑)。
── フリーで仕事をしつつ、お子さんがまだ小さい状態でのシングルマザーだと、とてもご苦労されたと思うのですが、迷いなどなかったのですか?
さいき:大ありです。今でも「どうしよう、どうしよう」といつも思っています。ただ離婚した当時は、窮状を聞きつけたフリーの編集者として働いている友人が仕事を分けてくれて、それでなんとか食いつないでいました。そんな風に助けてくれる友人が他にもいて、それでぎりぎり綱渡り。再就職も試みたんですが、年齢がネックになって面接で落ちました。自治体でシングルマザーの就労支援プログラムがあったので問い合わせたりもしたんですが、職歴を聞いた職員から「あなたの役には立たないと思う」と言われたり……。だからもっぱら友人たちのおかげ。湯浅誠さんがいう「人間関係の『ため』」に救われたのが大きいです。あとは運。自分の力でなんとかした、という思いはまったくありません。
── 運、ですか?
さいき:大きな病気をしなかった、ということもそうだし、「もうだめだ」と思った瞬間に別の仕事が舞い込むとか、自分の力じゃないところで何とかなってきた、というのが実感です。だからこそ「(基本的な生存に関して)こんなに運に頼らなくてはならない社会はおかしい」とは本当に思いましたね。去年の9月に千葉県でシングルマザーの方が娘を殺害した事件がありましたけれど運が悪かったら私だってどうなっていたかわからない。運で左右される今の社会は本当に不完全すぎる。
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前作『陽のあたる家』
── そういった経験があって「貧困問題」を作品として描こう、という思いに繋がっていくのですね?
さいき:そうですね。『陽のあたる家』を描く動機へと繋がっていきます。(後編へ続く)

【後編】「この声は絶対、拾わなければ」流しのマンガ描き・さいきまこさんが語る「私の綱渡りまんが道」

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