日本の相対的貧困率がはじめて15.7%と発表された年、いわば「貧困再発見」の節目のなった2006年から10年。ここを指標として「マチバリー」でも、この間の支援活動に関わってきた方々のお話をうかがっていければと考えています。
2008年、東京・日比谷公園に「年越し派遣村」が出現する12年前。1996年から1998年まで新宿西口の地下広場に「新宿ダンボール村」というコミュニティが存在しました。当時200名以上の住人たちが住まうダンボールの家々が建ち並び、また彼らに惹かれたひとたちも多数集う、そんな風景が確かに存在していたのです。
そうして村が「消滅」した今現在に至っても、東京の路上者支援制度の枠組みや関係者の人生に影響を与え続けています。
そんな「新宿ダンボール村」に青春時代に出会い、どうしようもなく惹かれ、彼らに関わりながら写真を撮影することでカメラマンとしてのキャリアを出発されたのが、写真家の高松英昭さんです。現在もビッグイシューなどとも関わりながら、他者と関係性を大事にした作品を多数撮影されています。
1996年の新宿ダンボール村で、高松青年は一体何を発見し、何を学んだのでしょうか? フリーカメラマンとして生計をたてる秘訣まで、その自由すぎる半生を語っていただきました!
1970年生まれ。新潟県育ち。大学卒業後、日本写真芸術専門学校にて写真を学ぶ。日本農業新聞を経て、2000年からフリーの写真家として活動を始める。食糧援助をテーマにアンゴラを取材、インドでカースト制度に反対する不可触賤民の抗議行動ラリーを取材。「路上で生きる人」をテーマに取材を続ける。2005年、写真家の友人たちと写真集『Documentary写真』を自費出版。2009年、写真集「STREET PEOPLE」(太郎次郎社エディタス)を出版。
目次
「僕たちは人間中毒なんだ」
── この「マチバリー」のインタビューでは、最初にみなさんに「あなた自身、あなたは何者ですか?」ということをお伺いしているんですけれど、ズバリ高松さんは何者なんでしょうか?
高松:人間中毒です。人間中毒患者。
── なんですかそれは?
高松:あのね、これは1994・5年頃、新宿西口「新宿ダンボール村」があった頃、稲葉剛さん(NPOもやい理事)のような支援者たちやボランティアの人たち、カメラマンやライター、とにかくいろんな人たちがあそこに入り込んでいたんですね。とにかくずっとあそこから離れられなくて、村がなくなった現在でも未だに付き合いがある人たちもいる。そんな時「これはなんでだろうね?」と問いかけたら、ある人が答えたんです。「つまり僕たちは人間中毒なんだ」って。
「路上の人たちに会える」「話せる」「一緒にいると楽しい」「いろんな立場の人が集まる」っていうのが、つまりあの当時の新宿西口地下だった。いろんな人たちと会って話せるのが楽しい、つまり人間がいかに面白いかを味わいたいから集まった僕らを、その人は「人間中毒」と呼んだんです。
僕はその言葉がすごく気に入っているんです。僕は写真をやりながら路上と関わっているんですけれど、被写体になってくれている路上の人たちが好きなんですよね。彼らに会うのはすごく楽しいし、彼らのまわりに集まってくるボランティアの人たちも面白い。どんな人間でも僕は興味が尽きないですね。そういう意味で僕は「人間中毒」なんです。
高松少年、メキシコでホームレスになる
── 小さい頃はどんなお子さんだったのですか?
高松:小学校の頃からそこそこ目立つ子で、それなりに頭もよかったので不良グループの人たちに勉強を教えたりとかしていましたね。ただあまりに目立っていたので、中学の頃、一ヶ月だけいじめにあって、クラスの中で無視をされていた記憶があります。今思い返しても原因はわからないんですけれど、いつの間にか。
── どうやって一ヶ月で問題を打開したんですか?
高松:当時プロレスが流行っていたんですが、ある友達が「体育館でプロレスやるから一緒にやろうぜ」って誘ってくれたんです。僕はこの時がチャンスだと思って、もう必死にプロレスで勝ち進んでチャンピオンになった(笑) 。必殺技「いじめられっ子 窮鼠猫を噛むヘッドロック」です。それをきっかけにいじめは止まったんですけれど。
でもこの一ヶ月は、今思い返しても僕の中で重要な出来事でした。休み時間が長くて、独りでいることを先生とかにばれたくないから図書館にこもって百科事典を1ページ目からずっと読み続けていたりして、とにかく無視されるのはきつかった。いつも一緒に学校に通っていた友達から「もう迎えに来ないで」と言われたり。「無視」は伝染病みたいにどんどん広がっていくんです。とても、つらい体験でした。後付けかもしれないけれど、あとになって多くの通行人が無視していた「ダンボール村」と出会ってあれほどまで惹かれたのも、この経験があったからなのかもしれません。
── 学生時代から写真に興味があったんですか?
高松:いや、全く興味なかったですね。なにしろ田舎だから、写真なんてオタクがやるようなものだと思っていました。中学も授業が終わったら、近所の駄菓子屋の息子のところに集まってみんなでゴロゴロしたり、高校生になったら登山部に入ったんですが、夏休みはほぼタバコを吸いながら麻雀していました。
高校生だった僕らにとって重大なことはモテることだったんです(笑)僕のいた地域というのは、まじめで、勉強ができる人間というのはモテなかった。ワルくてちょっと学校をさぼるっようなやつのほうがかっこいいという文化でした。だからちょっと悪い感じを出してモテたかった(笑)
── そうやって結局モテたんですか?
高松:モテない(笑) もう本当にモテなかったです。モテなかったので、夜みんなで自転車に乗って海岸に集まるんです。するとそこの暗い通りに、エロ本の自動販売機が光っているんですよ。それをみんなで買いにいって、じゃんけんで誰が保管するか決めて帰っていくという(笑)
進学先も写真と関係のない普通の大学です。そこでメキシコに一年間留学し、メキシコ国立自治大学(UNAM)の外国人コースに入ったんです。
── いきなりですね! なぜメキシコに留学を?
高松:実は高校の時には船乗りになりたかったんです。小中学校の頃、TVアニメで『宝島』と『ガンバの大冒険』をやっていたんですね。それが昔も今も大好きで、特にその頃はガンバになりたかったんです(笑)。ガンバみたいに船にのって、知らない場所へ旅をしたりしたかった。そんな思いがあって、自分の全く知らない国としてメキシコを選んだんです。当時はそこそこ英語を喋れたので、それに加えてスペイン語も覚えると世界中でほとんど言語に困らない。だからスペイン語を勉強したいという思いもあって、UNAMに留学しました。
でも、僕はそこでホームレスになっております。
── これまた唐突ですね(笑)
高松:UNAMではイギリス人の女の子とアパートをシェアしていたんですが、引っ越した日に多国籍のクラスメートたちを招いてパーティしたんですね。そしたらみんなが24時間アパートの中で踊り続けてしまって(笑)。警察を呼ばれ、大家も出てきて、どんなに言い訳しても「駄目だ、今すぐ出て行け」といわれ、そのまま女の子とふたりでスーツケースを抱えて町をさまよい歩くことになってしまいました。最終的には友達の家に居候できたんですけれど。
── 何やってるんですか(笑)
高松青年、写真家を志す
── 結局高松さんは何をきかっけで写真家を志すようになったのでしょうか?
高松:これはもうきっかけを正直に話しますが、僕は留学したメキシコである女性を好きになったんです。だから留学を終えたあと、すぐにでもまたメキシコに戻りたいと思ったんです。日本で普通の会社に就職なんかしたら、今度はいつメキシコにいけるかどうかわからない。じゃあ、どうしようかと考えた時に「まてよ、カメラマンになれば世界中どこにいってもいいんじゃないか」と思いついたんです。いや、まじめな話。
── すごい発想していますね。
高松:これは本当にまじめな話、一年学費を貯めて写真の専門学校に通って、カメラマンになってメキシコにいき、向こうで写真を撮って生活していこうと思ってたんですよね。それで大学卒業後の22歳の頃、実際パチンコ店で働き始めました。その頃は真面目に、カメラマンになってメキシコにいって、彼女と幸せになるんだと思っていました。
── 素敵な女性だったんですね。
高松:うん、そうですね。まぁ、ちょっとぼかしておかないと、まだ友達なんで(笑)。でも、写真をやろうと思った動機は本当にそれです。
── 写真にそれまで興味はあったんですか?
高松:いや、まったく。カメラも持っていない(笑)。写真の専門学校に通おうと決めてから、初めていろいろと調べて、報道写真を学びたいと思ったんですが、それまでは写真なんか全然知らなかった。
── じゃあ、最初の「カメラマンになったらメキシコにいける」と思った時の「カメラマン」はどこから出て来たんですか?
高松:なんでしょうね?そこは単純にイメージです。イメージでカメラマンは海外を飛び回っているから、まぁカメラマンでいいだろうと。
── そんな動機で学費を貯めて入学しちゃったんですか。
高松:22歳から一年働いて23歳の時ですね。学校に入る時に、はじめてカメラを買ってがんばるぞって(笑)。
── いや「がんばるぞ」じゃないですよね。
高松:実は写真学校に入る前に、メキシコの彼女から別の人が好きになったという手紙を受け取っていたので、すでに計画は頓挫していたんです。僕の手元は入学案内だけが残って、入学金も貯めているし、まぁしょうがない、これしかねぇかと(笑)。で、入学しました。
── なんか切ないなあ(笑)
高松青年、ダンボール村と出会う
高松:写真学校は渋谷にありました。そのころ僕は府中の方に住んでいたので、ちょうど乗り換える駅として新宿の西口、そこに広がる「ダンボール村」と出会ったんです。B通路と呼ばれている西口地下から中央公園に伸びる両側の、今は動く歩道があるあたりにずっとダウンボールハウスが並んでいました。それと現在は催事場になっている西口地下を出たところにあるロータリー付近が「インフォメーションセンター前」と呼ばれて(※支援団体である)新宿連絡会の炊き出し拠点になっているような状況でした。
── そんな立ち並ぶ「ダンボール村」を発見して、高松さんはどうやって入っていったんですか?
高松:「こんにちは!」って。そりゃそうでしょ、初めましての挨拶なんだからこんにちはでしょ。
── それは一番手近なダンボールハウスの住人に?
高松:歩いてどの人に声をかけようかと迷っていたんだけれど、話し合っているグループがいたので「こんにちは」って。
── そうしたら向こうはなんと?
高松:「こんにちは!」「なんだ?」「あのーでございますね、僕写真学校の生徒で、こちらをテーマに写真を撮りたいんですけれど、撮らせてください!」といったんです。ちょうどその人たちは「新宿闘う仲間の会」という当事者グループだったんですけれど、そうやって頼んだら「まぁ邪魔にならない範囲で君も頑張りたまえ」と。
── あっさりOKだったんですか?
高松:うん、あっさりOK。
── 当時「ダンボール村」には高松さんのほかにも撮影者が入っていたとうかがいましたが、そんなふうにあっさり撮影許可がおりるような状況だったのですか?
高松:いや、撮影していて殴られた人もいっぱいいました。僕も殴られたことがあります。撮影とは、そういうものでしょ。それでも、住民との関係性を大事にしていた撮影者が結局長く関わって、その場に残ったんだと思います。
でもね、正直に話すと、僕も最初は嘘をいったんです。最初は「この状況はひどい。だから僕は写真を通じて、社会に訴えたい。だから撮らせてくれ」といったんですが、その場で「わかった、がんばれ、じゃあな」って(笑)。だからこれは違うなと反省して「僕は報道カメラマンになりたいんです。学校の課題もあるので、撮らせてもらえませんか?」と正直に頼んだんですね。そうしたら「学校の宿題か?」「はい、学校の宿題でございます」「宿題じゃしょうがねぇな。わかった。じゃあ撮りなよ」って。
彼らからしてみれば、20代そこそこの若者がきて「社会をどうにかしたいんです」っていわれても「がんばれ」としかいいようがないですよね。少なくとも最初に僕が彼らにいった言葉って、どこかの新聞で読んだような建前でした。「高松英昭」自身の言葉じゃなかった。彼らの前で正直に「宿題もありますから」と話した時に、初めて彼らもまた僕を「高松英昭」として扱ってくれた。あの当時ダンボール村に住む彼らを「先輩」と呼んで、その先輩たちを社会的弱者的な視点で見るのではなく、個人個人の関係性、お互いが、自分をさらけ出しながら相手に歩み寄るという「当たり前の関係」を築いていきました。それがたぶん僕の今に至る出発点になったんだと思っているし、今でも一番大切なことだと思っています。
「ダンボール村学校」の日々と、その卒業
── ダンボール村に通い始めた頃は、どのような生活をされていたんですか?
高松:昼間は遺跡発掘のアルバイトで毎日二メートル四方の穴を掘って、夜間写真の学校に通っていました。学校が九時くらいに終わって、帰宅途中山手線で新宿駅に降りるから、その時にちょっと寄って写真を撮ったり、そのままダンボール村にごろんと横になって泊まったりしていました。当時月曜日が区役所への福祉行動(※支援者を含めた集団で福祉事務所へ生活保護等や医療などの手続きに向かうこと)で、それを撮ろうとして日曜日にいき、そのまま泊まって朝一緒に福祉事務所へいくということもしていました。
それとあとになって、当時支援者の中でもカメラマンとかライターなど、ただただ「先輩」たちが好きでこの場所にやってきているという、特にそこにいても支援の役に立たない人たちがいたわけです(笑)「ぶらぶら班」と自称していたんですが、僕も含めたその人たちが「たまには何かやろう」ということで「新宿たまパト団」というのを始めたんですね。
それは卵をゆでて、ゆで卵を手土産に新宿の路上にいる人たちと話し込むという活動でした。卵一個でどれだけお腹がふくれるかというとたかが知れているのですけれど、相手の家を訪問する時にはなにか手土産がほしいじゃないですか?だったらゆで卵を作ってそれを渡そう、それをきっかけにいろんな人たちのところにおじゃましようと。「心苦しい、お金もなくて玉子一つしかございませんが、どうか話相手になっていただけませんか」と(笑)
当時のダンボール村には活動家やボランティア、カメラマンや芸術家など、とにかくいろんな人がたくさんいました。
── ダンボール村を出発点にして、今現在に至るまでなんらかの形で支援に関わっている方は何人もいらっしゃいます。
高松:だから不思議ですよね。ダンボール村で知り合って関わっていた人たちは、未だにどこかで繋がっているんです。
僕自身、あそこにいた人たちと関係を作ることがすごく楽しかったし、それで何が生まれるかわからなかったけれど、とにかく関係性を大切にしていました。
路上でいろんな人たちと出会ったけど、強く印象に残っている出来事があります。当時60過ぎの方が新宿ルミネ近くの路上にいらっしゃって毎日顔を合わせていたんですが、ある時2~3日いなくなってしまったんですね。それで、戻ってきた時「おひさしぶりです」とお話を聞いたら「青梅のほうまで自殺しにいっていた。でも死にきれなくて帰ってきた」のだと。そのあと、数ヶ月たってまたその方がいなくなったのですが、どうしたのかと聞いたら、どうもたまたま息子さんが通りかかって、一緒にどこかへいったということでした。だからもしダンボール村がなかったとしたら、その方は息子さんに会うことがなかったし、もしかしたら青梅で死んでしまったかもしれない。
── ダンボール村が帰る場所になっていたんですね。
高松:はい、帰ってくる場所があったからこそ、彼は死なずに息子さんに会うことができた。それはある意味、ダンボール村が一時的なシェルターとして機能していたからこそだと思います。社会の中に一時的に避難できるシェルターがほかには無かったとも言えます。
── そうしたコミュニティを築いていた新宿ダンボール村でしたが、1998年2月7日未明に火災が発生、50軒以上のダンボールハウスが燃え落ち、住民4人が焼死するという痛ましい惨事がおこってしまいます。この日高松さんはどうされていたんですか?
高松:連絡が来たので駆けつけたのですが、すでに鎮火していました。ただ、火元から30メートル脇のほうに住んでいたおばちゃんがまだいらして「自分の目の前に燃えている人間が飛び込んできた」というような話を聞いていました。
僕が強く憶えているのは、最終的にそこに建築会社の人が来て、改修工事のために一帯を全部覆い始めたんですね。そのおばちゃんが寝泊まりしていた場所は無事だったにも関わらず、覆われていった。その最中、彼女は一歩もその場所を動かなかったんです。彼女は他にいく場所もない。だから、建築会社の人が柵を作って壁を埋めていく中でも、彼女は座ったままそこにいた。彼女がそうまでしてその場所にこだわる理由はなんだったのか、僕はいまだに考えています。
あの火災は、支援者の人にとっても、大きな出来事だったと思います。ダンボール村は飽和状態になっていたので、いつかきっとそういう事故が起こるだろう。そうなったらきっと被害は大きいだろう。予測していながら止められなかったという思いは、支援者の中にあるんだろうと思います。少なくともダンボール村は、住人や支援者を含めたみんなで作り上げたものなのだから。そこで死者を出してしまったという事実は、僕以上にもっと近い立場で関わっていた支援者にとって、耐え難いことだった思います。
結局ダンボール村は火災をきっかけに自主解散という形をとって、大部分は都が用意した施設に入所し、一部の方たちは新宿中央公園に移ってなくなってしまいました。ただ、僕はあの場所ですごく学びましたね。僕にとって「ダンボール村学校」だったのかもしれません。本当にいろんなことを学ばせてもらいました。いまだに「お世話になりました」という気持ちでいっぱいなんです。
けれども、当時の「ダンボール村」を郷愁めいて、ユートピアだったかのように語ることはできません。多くの人たちが路上で死んでいった、という現実がありますから。これからも、その現実を忘れることは絶対にありません。
「ダンボール村学校」卒業後の進路
── そんなたくさんの学びを得た「ダンボール村学校」を卒業されたあと、高松さんはどうされていたんですか?
高松:一部の方は新宿中央公園に移りましたし、なかには新宿駅に戻った方もいらっしゃったので、その中でも少しずつ写真を撮ったりしてました。写真学校は2年間で卒業し、自分でプリントしてたまに路上写真展をやったりしつつ、そのあとは30歳まで「日本農業新聞」でサラリーマンをしていました。一度サラリーマンになってみたかったんです。
── 「メキシコでカメラマン」の夢はどうなったのでしょうか?
高松:ほら、メキシコにはすでにいく理由がないからです(笑)。その時にはカメラマンにこだわらず、なにかを誰かに伝えることが面白いなという思いがあったし、ちょっとサラリーマンを経験してみたかったんですね。なにより就職が決まったって伝えたら、ダンボール村の元住民からは「絶対にやめるなよ。仕事ないときついから、絶対にやめちゃいけないよ」とアドバイスをもらって。
── すごい説得力だ(笑)
高松:すごい説得力でした(笑)。だから5年間はやったんですが、そのうちほかの世界が見たくなって、すごくいい会社だったんですが「お世話になりました」と辞めて、アフリカへ内戦中のアンゴラを撮影に向かいました。
── なにか「つて」はあったんですか?
高松:ないです。内戦中の国だったので国連の援助がなければ取材には入れない。だからWFP(国連食糧支援機関)の事務所にいって正直に「『食べる』をテーマに取材したいんでございます」と頼んだら、事務所長は「わかった、行ってこい」と。「つきましてはビザや諸々の手配もお願いできますか」といったら「わかった」と(笑)。
結局全部国連でアテンドしてもらって、主要な難民キャンプをまわったり食糧配給の様子を撮ったりすることができました。これはすごくいい経験だったんですけれど、肝心の写真はヨーロッパの雑誌にいくらか売れたきり、取材は完全に赤字でした。そのあとはいろいろな雑誌の仕事をしたりして、現在に至ります。
ビッグイシューの魅力
── 高松さんは「ビッグイシュー日本版」の販売者を撮影され、2009年に「STREET PEOPLE―路上を生きる85人」として写真集としてまとめられています。そもそもビッグイシューと関わりを持たれたのはどういった経緯からだったのですか?
高松:イギリスで始まったビッグイシューのことはそもそも知っていたんですが、それが今度大阪にやってきたというのを聞いて、佐野章二さん(現・ビッグイシュー日本代表 CEO)にお電話差し上げました。
── ご自分から聞きにいったんですか?
高松:はい、自分から。そればっかりですが、自分からいかないと相手にしてくれないから、いくしかないんですよね。電話をしたら佐野さんもちょうど東京で販売したいということだったので、ふたりで新宿のベルクで待ち合わせて相談するところからの関わりです。
まずは東京の支援に関わる人たちの協力が必要だというので、「渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合(のじれん)」や新宿連絡会を紹介して引き合わせて、東京での販売者を勧誘から始めました。スタート当初は新宿東口でテスト販売したんですが、ベルクの迫川尚子さんがすごく応援してくれてコーヒーを差し入れしてくれました。
そこから少しずつ始まって、新宿で販売者募集のビラを配ったり、説明会を開いて事務所を作ったり、佐野さんと売上げを数えて小銭を数えたりのお手伝いをしながら、そのうち「じゃあ高松君はカメラマンなんだから、写真を撮って」と頼まれまして。
── 高松さんはビッグイシューのどんなところに魅力を感じてらっしゃいますか?
高松:ビッグイシューのすごいところは、ホームレスの人たちが当事者として路上で販売しつつ、お客さんと普通の関係性を作れるような雰囲気を生み出したことだと思います。売る人買う人の関係性の中で、顔が見え体温が感じられる関係を作ったことは、いまだにすごいなと。販売者とお客さんが友達や相談役になったり、中には結婚したりした方もいる。単純に「仕事を作る」ことは他支援団体もやっていますが、同時にそういった当たり前の関係性を作っていくことはなかなか難しいじゃないかと思っています。
さまざまな人同士が「当たり前の関係」を結んでいける社会に
── 現在フリーランスのカメラマンとして、どのようなお仕事が中心となっているのでしょうか?
高松:いろんな雑誌から依頼を受けて、インタビューなどの写真を撮影することが多いです。おかげさまで忙しいといえば忙しいですが、基本的には嬉し恥ずかし日雇い労働者ですね。ただ、僕はこういう性格なので「これは高松さん向きじゃない?」と声をかけてもらえることもあります。昔先輩のカメラマンから「とにかく専門性を持て。君にしか撮れない写真を撮るようなカメラマンにならないとフリーになったら苦労するよ」といわれていたので、それを守ってやっていますね。
── ビッグイシューをはじめ多方面で活躍されていますが、高松さんがフリーランスとして仕事をされてきてよかったことや悪かったことはなんでしょうか?
高松:フリーランスになってよかったことは、平日お昼寝できることですね(笑)。金銭的には不利な事が多いですが、少なくても自分の考えで自分の行動ができることが大きいです。それはとても大変なことですがフリーランスの醍醐味の一つでもあって、おもしろいことに対してお金になるかわからないけれど動けることが面白いですね。
逆に悪かった点としては、うーん、サラリーマンのころは二年くらい先まで見通せてたんだけど、フリーになってからは、がんばって三日先までしか見えないということでしょうか(笑)
── 職業人としても、あるいは人生的な意味でも、今後の目標をお聞かせ下さい。
高松:僕はできるだけ自分が幸せになりたいんです。そんな風に、個人的な想いで行動して良いと思います。なんか今、日本全体が「社会的」とか「公共性」とか鵺(ぬえ)みたいに実態がよく分からないものを意識し過ぎて、自分という「個」を押し殺しているように感じるんです。そして、それを他者にも強要している。とても、息苦しい。自分がどうしたいか、どうしたら自分が幸せになれるか、そこから発想した方が良いんじゃないかと。
だから、極私的な発想でやりたいことをやっていきたい。それがやっぱり幸せだと思っています。これまで20年ほどカメラマンをやってきた中でその幸せを感じていて、それを続けることの大変さもわかっていますが、それでも続けていきたい。
ただ、言いたいこと、やりたいことをやるうえで、ひとつだけルールがあると考えています。それは「他者を傷つけない」「他者の尊厳を踏みにじらない」ということ。「個人の意見なんだから、こんな発言をしてもいいだろう」といったとしても、それで他者が傷つくことがあれば、それはルール違反です。他者を傷つけて、自分が幸せになることはあり得ない。
「他者の尊厳を傷つけない」ことを前提として、好きなことを表現していきたいんですね。だからこそ、言葉や表現を悪用して相手を傷つけるような人たちを僕は決して許さない。さまざまな人たちが お互いの「個」を認め合うような「当たり前の関係」を結んでいける社会になっていくことが、僕が幸せになるためにも大事なんだと思っています。[了]
期間は6/11~6/18まで。アクセス等の詳細は、清泉女子大学のウェブサイトでお確かめ下さい!
http://www.seisen-u.ac.jp/news/20160530-01.php